学校では、自分に合ったいい先生も、合わない難しい先生とも出会ったりする。
義務教育期間であれば、学校にほぼ強制的に通うことになるが、大人になってからは『社会』という荒波の世界で学ぶしかない。
そこには、正しい情報も間違った情報も混在している。
玉石混淆のその世界では、人生を棒に振るくらい危険なことだらけ。
そのヤバイものナンバーワンが『情報』である。
それらは目や耳、鼻、肌など感知しやすい感覚器官から伝染されていく。
そもそも情報自体に善悪はないが、それを処理する者の『心』が生き方として反映されているわけだ。
出会った人や尊敬できる先生に教わった情報が間違っているケースは多く、それが人生の落とし穴につながっていく。
情報過多の現代社会では、先生が学んだそのまた先生も間違った教えを受けている可能性が非常に高く、そんな学校や師弟制度が多い。
人生では、このこと以上に恐ろしいことはない。
なぜならば、人間は『情報』を無意識に蓄積して時代に対応していく生き物だから。
「無意識的な情報刷り込み=思考停止の洗脳」
いくら正しい教育を受けたとしても、学校外でそれに反した教育・不良の友だちと時間を共有していたら当然、目標には到達できない。
隠れてタバコを吸おうが、万引きしようがカツアゲされようが、その場に指導者がいなかったらそれを知る由もないわけだ。
正しい情報の『足し算』ができたら、正しくない情報の『引き算』が必要になる。
そこに、人を成長させるという教育の難しさがある。
経営者や教職員などすべての教育者を含め、「他人を成長・進化させる責任」を負っている人は常に身にしみていると思う。
そして、どれくらい道からそれているかすら鋭い指導者ならば生徒がまとっている『空気感』でそれを見抜いてしまう。
「他人の目がない場所でどれだけ結果を出せるか」
高校生時代、授業中はトランプや漫画やゲームで遊ぶも、テストでは高得点を取るなど「努力は人に見せないが結果だけは見せる」という結果至上主義をモットーにやってきたので僕は今でもそれがベースになっている。
いつの時代も、目に見える結果にシビアになれるかどうかで、圧倒的に人生の濃度が違ってくる。
目指す人生の『山』を見つけたならば、そこへ到達するための『道』をひたすらコツコツと歩むのみ。
変動あるモチベーションに左右されて前進できないならば、『道』を先行く人に聞けばショートカットを教えてくれるはずである。
そんな『先導者』に出会えるか否か、『道』を間違うことなく歩めているか否かでその『山』から見る景色が虹色にも灰色にも変化していく。
どんなに苦労しようが、楽をしようが、到達する者だけが観れる特別な景色を飽きるほど眺めて人生を楽しみたいものだ。
たとえ、落とし穴にハマって死にそうになっても、勇気と覚悟だけで笑い話にできるように這い上がる。
どんな道中をたどったとしても、やはり人生という『登山』は奥深い。
●今回の『知覚動考』
人生に必要なのは、戦略とそれを成し遂げる覚悟。
「これでもか!」と思うほど結果をシビアに、行動し続ける。
あとはただ、天の判断を待つのみ。